大学院文学研究科
密教学専攻修士課程
李新正(釋真圓)
目次
はじめに
四、 空海の入定留身
五、 肉身不壊の現代科学的哲学理論の仮説
仮説1、仏教の修行は我々の物質的な体の構成を変えられるか
仮説2、修行は我々の身体の構成を変えられるか
仮説3、物質の精神科と精神の物質化(肉身不壊・舎利・虹)
仮説4、修行者による「精神エネルギーの場」
六、 仏教修行における神通力の意味と現代哲学的な解釈に関する仮説
1、 問題の所在
2、 経典解釈
3、 六度の現代科学的な哲学観とそのホログラフィーの意味
4、 六神通の現代科学的哲学理論観の仮説
神足通天眼通天耳通他心通宿命通漏尽通
5、 神通力の例
鳩摩羅什金剛智不空善無畏一行
6、 神通力の現代哲学観仮説
四、戒めのホロフラフィックの意義:
五、三密加持の仮説
六、摩訶不思議な現象の現代哲学の仮説
まとめ
はじめに
周知の通り、空海は、804年に唐に渡り、慧果和尚から両部の大法を授けられ、日本に帰って、日本の真言密教を創立したのである。832年(天長九年)11月、空海は高雄山(神護寺)から高野山に移って、穀類を断ち、坐禅修法に専念した(1)。834年後、承和元年五月には「吾れ永く山に皈らん」とし、都から高野に戻って、弟子に御遺戒を説き(2)、九月には入定の場所を定めた。それから、11月15日に、高弟・真然に山を託すことを表明した(3)。同時に、翌年の3月21日、寅の刻に入定することを予告したのである(4)。
入定とは、死ぬことではなく、生死の境界を超え、弥勒出世まで兜率天にあって、衆生を済うことをいうのである(5)。さて、『御遺告』が発表された4日後には、宗派の今後のことを奏請するために、最終的に上京した(6)。
それから、彼は3月15日、三通の御遺告を遺し、御影堂北の中院にて、勅賜の御椅子の上に結跏趺坐し、手に大日の定印を結び、入定準備に入った。弟子たちが弥勒の宝号を唱え続ける中で行われた。空海は目を閉じて、言葉を発さなくなった。日時共に予告の通りに行なわれた。入定の日については、元日から数え、八十一日間の釈迦八十三歳入滅に通じるというような神秘的な説もある。『御遺告』は空海真撰ではない説もあるが(7)、空海の入定にまつわるエピソードは、信仰の中に息づき今日も生きている。
四十九日間の供養が終わると、弟子たちは師を輿に乗せて、奥の院内に運んだ。その御廟所は、地下一丈五尺(約3.2m)の所に一間(約1.8m)四方の石室を設けたもので、そこにしつらえた厨子に身体を安置し、石室内に出入できるように計らいも施されていた。
時が経って、真然の孫弟子であり東寺九代目長者となった観賢(853-925)は、長年間、空海の入定身を確かめたがっていた。彼が空海への大師諡号を二度目に奏請した際、醍醐帝が空海の霊夢を見たこともあり、諡号「弘法大師」下賜と送衣の儀が行われた。空海入定後、87年が経った延喜二十一(921)年十月二十七日のことである。観賢は、二人の弟子に御衣等を捧げ持たせ、廟内に入った。石室の中がはっきり見えなかったため、観賢は自分の罪障の深さを悔いた。すると、雲霧が晴れるようになって空海の入定身が認識された。御衣は破れ、髪は伸び垂れ、膝を埋めるところだった。弟子の淳祐には空海の姿を認識されなかったが、師の導きの下で、膝に触ると、柔らかくて温かかったと言われている(8)。
一、空海の肉身入定
弘法大師空海は、六十二歳に肉身が儘入定され、其の肉身は今も奥の院で礼拝されている。空海に対する研究の中、其の入定の意味については研究者によって、いろいろと完璧的に解釈されたけれども、ほとんど密教の理論上の解釈にしかならない。
経典『大般若波羅蜜多經卷第五十三——初分辯大乘品第十五之三』には、
“復次善現。若菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。以無所得而為方便。往澹泊路觀所棄屍。死經一日或經二日乃至七日。其身膖脹。色變青瘀。臭爛皮穿。膿血流出。”(9)
とある。つまり、この経典の中でも、人が死んだ後、死体が腐乱可能に変質すると明確に解釈されている。つまり観点は現代医学科学の観点と完全に一致している。
では、なぜ肉身不壊になるのか。現代の医学知識によって、人体が死亡以後、大腸菌群はすばやく細胞組織を分解する。したがって、死体もすばやく腐乱することになる。空海の死体はなぜ腐乱しないのか?実は、このことは非常に簡単な問題であって、仏教徒と一般の衆生との区別でもある。肉身不壊は、現代医学の観念と歴然と矛盾するのである。
なぜ仏教の修行によって、その金剛不壊の結果が出るのだろうか。この問題を解釈すると、仏教は不可知論に陥ると判断される。仏法は真理なるものであり、現代科学哲学のような真理が込められている。したがって、真理は真理をもって説明できることとなる。従来の研究の着目点は「仏法理論」の研究であって、現代科学哲学からの研究方法を見落としてきた。もともと、釈尊の時には文字がなかったが、釈尊の弟子たちは仏教を説明するために文字を借りて仏法を発揚したわけである。もし私たちが文字だけに固執すると、仏法を悟ることはとても難しくなる。
弘法大師は、今成仏しているのか。もし今成仏しているのであれば、弥勒信仰という説が問題になる。弥勒菩薩は、典型的な顕教に属して信仰しているので、密教のように即身成仏を唱道しているのとは完全に違う理念である。空海と弥勒信仰を結びつけたのは、時代が求めた信仰上の便宜であるのかもしれない(10)。
仏教の時間概念によれば、過去・現在・未来は実は同一した時点である。われわれがこの理念を受け取ると、「即身成佛」と、弘法大師の「彌勒信仰」——「彌勒菩薩が降りてくることを待つ」とはちっとも矛盾しないのである。現代物理學の知識は、われわれに物体の運動の速度と光の速度と同じである場合、時間は止まってしまうことを教えた。またもし物体の運動速度が光の速度を超えるならば、時間は逆転してしまい、過去に戻ることができるだろう。認識された物質が光を超えるかは知らないが、人間の「意念」は完全に光の速度を超えることができる。この問題は、一見証明しにくいが、理念は通じるのである。同時に、人間の「意念」は、また思惟を逆転させることができ,われわれが昨日・一昨日の過去を記憶するようになる。仏教信徒の中、唯識論派の重要な觀點である「三界唯心」は,物質實體——色,ただ幻影であって、陽炎のような、空花のようなものである。人間の「意念」は「心」——精神の表現形式の一つである。したがって、「三界唯心」,すなわち過去・現在・未來は心によって転じられるといえる(11)。
「空」も一つの相対的な概念であるが,一般常識からいうと,「空」はまさに「無」である。人体の一つの細胞は人体に相対してみると空である。人間を地球に相対してみるとまた空である。地球を太陽系に相対してみるとまた空である。さらに、太陽系を銀河系に相対すると空であり,銀河系を無限の宇宙に相対すると空になる。宇宙のすべての天球一つにしてみても、宇宙の中では依然として空になる。
空の解釈も、現代哲学的な解釈の方法を用いないと、一般の人々が理解するには難しいだろう。説教と説理は大きな区別がある。その意味で、現代哲学的の解釈方法は有効である。
肉身不壊とは、経典の解釈だけにとどまるのだろうか。経典の中では、肉体不壊についてどのように解釈しているのだろうか。
もっとも早く肉体の記録をしたのは誰だろうか。それは中国の禅宗の第六祖である慧能である。彼は七十六歳の時、新州の国恩寺で入滅され、その肉体は今も完全に保存されている(図表一を参照)。
慧能,(638~713年)唐代の僧侶。惠能とも呼ぶ。中國の禅宗第六祖であり,號は六祖大師、大鑒禅師である。祖籍は範陽(河北),俗姓は盧である。南海新興(廣東)の生れである。國恩寺に住居し,先天元年(712)に,寺內に報恩塔を建設させた。翌年七月,国恩寺に戻り,八月に寂した。世壽七十六歳であった。慧能の肉身が不壞し,今も留身され,曹溪に保存されている。憲宗の時、谥号「大鑒禅師」が贈られた。宋太宗の太平興国年(976~983)には、谥号「真宗禅師」が加えられる。その後、仁宗から谥號「普覺禅師」,神宗から「圓明禅師」という谥號を授けられる『五燈會元卷一_—六祖慧能大鑒禪師』(12)。
もっとも早く禅定に入ることを記録したのは誰だろうか。この人は、仏陀の弟子である迦叶かもしれない。『五燈會元卷一_一祖摩訶迦葉尊者』の中には、次の如くある。
迦葉告阿難曰:「汝今宜宣法眼。」阿難聞語信受,觀察眾心而宣偈言:「比丘諸眷屬,離佛不庄嚴。猶如虛空中,眾星之無月。」說是偈已,禮眾僧足,升法座而宣是言:「如是我聞。一時佛住某處說某經教,乃至人天等作禮奉行。」時迦葉問諸比丘:「阿難所言,不錯謬乎?」皆曰:「不異世尊所說。」迦葉乃告阿難言:「我今年不久留,今將正法付囑與汝。汝善守護,聽吾偈言:法法本來法,無法無非法。何與一法中,有法有不法?」說偈已,乃持僧伽梨衣入雞足山,俟慈氏下生。即周孝王五年丙辰歲也(13)。
經典によれば,迦葉尊者は阿難に法を受けた後、雞足山で入定された。迦葉尊者は、佛陀荼毗の後の第一入定者である。現在、彼は鶏足山というとことに禅定しながら、弥勒仏陀の出生を待っている。
唐代から、現在にいたるまで、年毎に僧侶あるいは尼僧が入滅後に、肉身が不壞する現象がずっと現れている。たとえば、中国の伝統的な地藏菩薩の道場である九華山に、僧侶の肉身不壞が数十人あった。いくつかは現在まで完全に保存されている。しかし、一部は「文化大革命」で破壊されてしまった。九華山の記載によれば、以下のような金地藏の肉身がある。仁義師太(比丘尼)真身、華德真身、隆山、法龍、常恩肉身、明淨、大興、慈明、德風、定慧、聖傳、無瑕和尚等である。このほかにも、台湾などのほかの地域にも、僧侶の肉身不壞の記載が残されている。ここでは、いちいち羅列しないことにする(14)。
肉身不壊とは、成仏の証拠として認めるだけで十分だろうか。修行して成仏するには、その方法は多くある。中でも最も受け入れられているのは「肉身不壊」と「舎利」である。しかし、仏徒以外の人のなかでも肉身不壊と舎利の現象が同じく発生することがある。たとえば、フランスの聖女のBERNADETTE(15)。
顕教は、大きく三つの大劫を経て成仏する。密教は即身成仏することができる。密教の教義に基づけば、我々は三大劫を経ずして成仏することが出来る。このことは經典あるいは空海大師の論述のなかでも詳しく書かれてあって、真言宗行者にとって、誰にも馴染んでいる。
では、肉体不壊の概念と肉体入定の概念は同じであるだろうか。肉体不壊と肉体入定は実は違う概念である。空海の場合は、入滅されたのはただ肉体不壊であった。この立場で言えば、仏教の肉身不壞であれ、異教の肉身不壞であれ,その形成原理は当然ながら同じである。しかし密教の解釋によると、すべての有情は、皆大日如來の等流身であるため、名相は違うが,仏性は完全に同じである。ところが、もし肉身不壞を成仏した身であるとするならば、説明としては不充分である。なぜかというと、結局のところ成仏は、必ず六神通を具備しなければならないからである(16)。厳密的に言えば、成仏も「理」成仏——覺悟と、「事」成仏——六神通を具備することに分けなければならないからである。
二、肉身不壞の現代科學的哲學理論の仮説
仮説1、仏教の修行は我々の物質的な体の構成を変えられるか。
まず、明白しなければならないことがある。仏法の如法に基づいて修行しなかった場合、われわれの身体は、すべての生命体と同じく生老病死するだろう。しかし、「死」だけ如法に修行したら、行者の「死」は一般の未修行者の死とは完全に違うものとなるだろう。このことは、行者特に大德高僧が入滅した後に現れる。たとえば、高僧を荼毗(火葬)すると、舍利が生じるだろう(17)。高僧は、肉身不壞するだけではなく、ある者は「虹身——火光三昧」もするだろう。「舍利」と「肉身不壞」、「虹身」は、修行が確実に我々の身体の物質の構成を変えられることを充分に説明している。我々の顔つきすら変えられることができる。この仮説については、後ろで説明をすることにする。
「虹身」の概念について説明を加える。「虹身」は、「虹化」あるいは「火光三昧」ともいう。つまり、行者が入滅のさい、体が五彩の光をもってから消失することをいう(彩虹)。密教の六大學說によれば,行者が入滅すると、身体は地、水、火、風、空に戻ってしまう。だが識は、靈魂の表現であり,精神の情報である。故に、上記の圣跡は、物質(地水火風空)が精神(識)に轉化したことと理解できるだろう。
『五燈會元巻一_釋迦牟尼佛』には、次の記載がある。
「爾時世尊至拘尸那城,告諸大眾」「吾今背痛,欲入涅磐。」即往熙連河側,娑羅雙樹下,右股累足,泊然宴寂。復從棺起,為母說法。特示雙足化婆耆,并說無常偈曰:「諸行無常,是生滅法。生滅滅已,寂滅為樂。」時諸弟子即以香薪競荼毗之,燼後金棺如故。爾時大眾即於佛前,以偈讚曰:「凡俗諸猛熾,何能致火爇,請尊三昧火,闍維金色身。」爾時全棺座而舉,高七多羅樹,往返空中,化火三昧。須臾灰生,得舍利八斛四斗。即穆王五十二年壬申歲二月十五日也。」(18)
上記の記載からもわかるように,釋迦牟尼佛の荼毗は自然の火ではできない。自身三昧という真の火である。自然の火はすべてを焼き払うことができるが、世尊の棺はなぜ焼き払うことができないのか。その理由は、物質の火は精神の体を焼き払うことができないからである。なぜなら、世尊の身体は修行によって変化が生じられているから焼き払うことができないのである。
西天の二祖である阿難尊者は三昧について戒めたことがある。
『五燈會元巻一_二祖阿難尊者』には、次に記載がある。
「王聞,失聲號慟,哀感天地。即至毗舍離城,見尊者在恆河中流,跏趺而坐。王乃作禮,而說偈曰:「稽首三界尊,棄我而至此,暫憑悲願力,且莫般涅槃。」時毗舍離王亦在河側,說偈言:「尊者一何速,而歸寂滅場;願住須臾間,而受於供養。」尊者見二國王咸來勸請,乃說偈言:「二王善嚴住,勿為苦悲戀。涅槃當我靜,而無諸有故。」尊者復念:「我若偏向一國,諸國爭競,無有是處,應以平等度諸有情。遂於恆河中流,將入寂滅。是時山河大地,六種震動,雪山有五百仙人,覩茲瑞應,飛空而至,禮尊者足,胡跪白言:「我於長老,當證佛法,願垂大慈,度脫我等。」尊者默然受請,即變殑伽河悉為金地,為其仙眾說諸大法。尊者復念:先所度脫弟子應當來集。須臾,五百羅漢從空而下,為諸仙人出家授具。其仙眾中有二羅漢:一名商那和修,二名末田底迦。尊者知是法器,乃告之曰:「昔如來以大法眼付大迦葉,迦葉入定而付於我;我今將滅,用傳於汝。汝受吾教,當聽偈言:本來付有法,付了言無法。各各須自悟,悟了無無法。」尊者付法眼藏竟,踊身虛空,現十八變入風奮迅三昧。分身四分:一分奉忉利天,一分奉娑竭羅龍宮,一分奉毗舍離王,一分奉阿闍世王。各造寶塔而供養之。乃厲王十二年癸巳歲也。」(19)
『五燈會元』の卷一には、仏滅度後、西天(古印度)の諸祖の大多数は、漸次に「火光三昧」に入ったと記載されている。次に示しておこう。
(1)第三祖の商那和修尊者
「乃告曰:昔如來以無上法眼付囑迦葉。展轉相授,而至於我;我今付汝,勿令斷絕。汝受吾教,聽吾偈言:非法亦非心,無心亦無法。說是心法時,是法非心法。」說偈已,即隱於罽賓國南象白山中。後於三昧中,見弟子鞠多有五百徒眾,常多懈慢。尊者乃往彼,現龍奮迅三昧以調伏之。而說偈曰:通達非彼此,至聖無長短。汝除輕慢意,疾得阿羅漢。五百比丘聞偈已,依教奉行,皆獲無漏。尊者乃現十八變火光三昧,用焚其身。鞠多收舍利,葬於梵迦羅山。五百比丘各持一幡,迎導至彼,建塔供養。乃宣王二十二年乙未歲也」(20)
(2)第五祖の提多迦尊者
「尊者示大神通,於是俱發菩提心,一時出家。者乃告彌遮迦曰:昔如來以大法眼藏密付迦葉,展轉相授,而至於我。我今付汝,當護念之。乃說偈曰:通達本法心,無法無非法。悟了同未悟,無心亦無法。說偈已,踊身虛空作十八變,火光三昧,自焚其軀。彌遮迦與八千比丘同收舍利,於班荼山中起塔供養。即莊王五年己丑歲也。」(21)
(3)第六祖の彌遮迦尊者
「乃告之曰:正法眼藏,今付於汝,勿令斷絕。乃說偈曰:無心無可得,說得不名法。若了心非心,始解心心法。祖說偈已,入師子奮迅三昧,踊身虛空,高七多羅樹,却復本座,化火自焚。婆須蜜收靈骨,貯七寶函,建浮圖寘于上級。即襄王十五年甲申歲也。」(22)
(4)第十祖の脅尊者
「十祖脅尊者,中印度人也。本名難生。初將誕時,父夢一白象,背有寶座,座上安一明珠,從門而入,光照四眾,既覺遂生。從值九祖,執侍左右,未嘗睡眠,謂其脅不至席,遂號脅尊者焉。初至華氏國,憩一樹下。右手指地而告眾曰:此地變金色,當有聖人入會。言訖,即變金色。時有長者子富那夜奢,合掌前立。祖問曰:汝從何來?荅曰:我心非往。祖曰:汝何處住?荅曰:我心非止。祖曰:汝不定邪?曰:諸佛亦然。祖曰:汝非諸佛。曰:諸佛亦非。祖因說偈曰:此地變金色,預知有聖至。當坐菩提樹,覺華而成已。夜奢復說偈曰:師坐金色地,常說真實義。回光而照我,令入三摩諦。祖知其意,即度出家,復具戒品,乃告之曰:如來大法藏,今付於汝,汝護念之。乃說偈曰:真體自然真,因真說有理。領得真真法,無行亦無止。祖付法已,即現神變而入涅槃,化火自焚。四眾各以衣祴盛舍利,隨處與塔而供養之。即貞王二十七年己亥歲也。」(23)
(5)第十三祖の迦毗摩羅尊者
「祖遂與徒眾詣彼,龍樹出迎曰:深山孤寂,龍蟒所居。大德至尊,何枉神足?祖曰:吾非至尊,來訪賢者。龍樹默念曰:此師得決定性明道眼否?是大聖繼真乘否?祖曰:汝雖心語,我已意知。但辦出家,何慮吾之不聖?龍樹聞已,悔謝。祖即與度脫,及五百龍眾俱授具戒。復告之曰:今以如來大法眼藏,付囑於汝。諦聽偈言:非隱非顯法,說是真實際。悟此隱顯法,非愚亦非智。付法已,即現神變,化火焚身。龍樹收五色舍利,建塔焉。即赧王四十六年壬辰歲也。」(24)
(6)第十五祖の迦那提婆尊者
「彼既夙聞祖名,乃悔過致謝。時眾中猶互興問難,祖折以無礙之辯,由是歸伏。乃告上足羅候羅多而付法眼。偈曰:本對傳法人,為說解脫理。於法實無證,無終亦無始。祖說偈已,入奮迅定,身放八光,而歸寂滅。學眾興塔而供養之。即前漢文帝十九年庚辰歲也。」(25)
(7)第十八祖の伽耶舍多尊者
「十八祖伽耶舍多尊者,摩提國人也。姓鬱頭藍,父天蓋,母方聖。嘗夢大神持鑑,因而有娠。凡七日而誕,肌體瑩如琉璃,未嘗洗沐,自然香潔。幼好閑靜,語非常童。持鑑出遊,遇難提尊者。得度後,領徒至大月氏國。見一婆羅門舍有異氣,祖將入彼舍,舍主鳩摩羅多問曰:是何徒眾?祖曰:是佛弟子。彼聞佛號,心神竦然,即時閉戶。祖良久扣其門,羅多曰:此舍無人。祖曰:答無者誰?羅多聞語,知是異人,遽開關延接。祖曰:昔世尊記曰:吾滅後一千年,有大士出現於月氏國,紹隆玄化。今汝值吾,應斯嘉運。於是鳩摩羅多發宿命智,投誠出家。授具訖,付法偈曰:有種有心地,因緣能發萌。於緣不相礙,當生生不生。祖付法已,踊身虛空,現十八種神變,化火光三昧,自焚其身。眾以舍利起塔。當前漢成帝二十年戊申歲也。」(26)
(8)第十九祖の鸠摩羅多尊者
「十九祖鳩摩羅多尊者,大月氏國婆羅門之子也。昔為自在天人。見菩薩瓔珞,忽起愛心,墮生忉利。聞憍尸迦說般若波羅蜜多,以法勝故,升于梵天色界。以根利故,善說法要,諸天尊為導師。以繼祖時至,遂降月氏。後至中天竺國,有大士名闍夜多,問曰:我家父母素信三寶,而常縈疾瘵,凡所營作,皆不如意;而我鄰家久為旃陀羅行,而身常勇健,所作和合。彼何幸,而我何辜?祖曰:何足疑乎!且善惡之報有三時焉:凡人但見仁夭暴壽、逆吉義凶,便謂亡因果、虛罪福,殊不知影響相隨,毫釐靡忒。縱經百千萬劫,亦不磨滅。時闍夜多聞是語已,頓釋所疑。祖曰:汝雖已信三業,而未明業從惑生,惑因識有,識依不覺,不覺依心。心本清淨,無生滅,無造作,無報應,無勝負,寂寂然,靈靈然。汝若入此法門,可與諸佛同矣。一切善惡、有為無為,皆如夢幻。」闍夜多承言領旨,即發宿慧,懇求出家。既受具,祖告曰:吾今寂滅時至,汝當紹行化跡。乃付法眼,偈曰:性上本無生,為對求人說。於法既無得,何懷決不決。又云:此是妙音如來見性清淨之句,汝宜傳布後學。言訖,即於座上,以指爪剺面,如紅蓮開出,大光明照耀四眾,而入寂滅。闍夜多起塔。當新室十四年壬午歲也。」(27)
(9)第二十五祖の婆舍斯多尊者
「王曰:佛滅已千二百載,師從誰得邪?祖曰:飲光大士,親受佛印,展轉至二十四世師子尊者,我從彼得。王曰:予聞師子比丘不能免於刑戮,何能傳法後人?祖曰:我師難未起時,密授我信衣法偈,以顯師承。王曰:其衣何在?祖即於囊中出衣示王。王命焚之,五色相鮮,薪盡如故。王即追悔致禮。師子真嗣既明,乃赦密多。密多遂求出家。祖問曰:汝欲出家,當為何事?密多曰:我若出家,不為其事。祖曰:不為何事?密多曰:不為俗事。祖曰:當為何事?密多曰:當為佛事。祖曰:太子智慧天至,必諸聖降跡。即許出家。六年侍奉,後於王宮受具。羯磨之際,大地震動,頗多靈異。祖乃命之曰:吾已衰朽,安可久留?汝當善護正法眼藏,普濟群有。聽吾偈曰:聖人說知見,當境無是非。我今悟真性,無道亦無理。不如密多聞偈,再啟祖曰:法衣宜可傳授。祖曰:此衣為難故,假以證明;汝身無難,何假其衣?化被十方,人自信向。不如密多聞語,作禮而退。祖現于神變,化三昧火自焚,平地舍利可高一尺。德勝王創浮圖而祕之。當東晉明帝太寧三年乙酉歲也。」(28)
(10)第二十六祖の不如密多尊者
「後,王與尊者同車而出,見纓絡童子稽首於前,祖曰:汝憶往事否?童曰:我念遠劫中,與師同居。師演摩訶般若,我轉甚深修多羅,今日之事,蓋契昔因。祖又謂王曰:此童子非他,即大勢至菩薩是也。此聖之後,復出二人:一人化南印度,一人緣在震旦。四五年內,却返此方。遂以昔因,故名般若多羅。付法眼藏,偈曰:真性心地藏,無頭亦無尾。應緣而化物,方便呼為智。祖付法已,即辭王曰:吾化緣已終,當歸寂滅。願王於最上乘,無忘外護。即還本座,跏趺而逝,化火自焚。收舍利塔而瘞之。當東晉孝武帝太元十三年戊子歲也。」(29)
(11)第二十七祖の般若多羅尊者
「及香至王厭世,眾皆號絕。唯第三子菩提多羅於柩前入定。經七日而出,乃求出家。既受具戒,祖告曰:如來以正法眼付大迦葉,如是展轉,乃至於我。我今囑汝,聽吾偈曰:心地生諸種,因事復生理。果滿菩提圓,華開世界起。尊者付法已,即於座上起立,舒左右手,各放光明二十七道,五色光耀。又踊身虛空,高七多羅樹,化火自焚。空中舍利如雨,收以建塔,當宋孝武帝大明元年丁酉歲。祖因東印度國王請,祖齋次,王乃問:諸人盡轉經,唯師為甚不轉?祖曰:貧道出息不隨眾緣,入息不居蘊界,常轉如是經百千萬億卷,非但一卷兩卷。」(30)
以上、西天の諸祖の入滅聖相は、修行がわれわれの物質的な身体を変えられることを充分に説明している。同時に,物質が精神に轉化できることを説明している。
仮説2、修行はわれわれの身体の構成を変えられるか。
このことは、修行によって我々の身体が細菌(大腸菌の群)によって分解・破壊されないようになるからである。あるいは我々の身体が細菌と同化し、互いに認め排他的な反応が生じないからである。
中国の古代、仏教修行者の中で「跳出三界外、不在五行中」という名言がある。つまり三界というのは「貪嗔癡」の三毒である。「五行」は、儒教道教のなかの哲學の名詞であるが、天地萬物を「土木水火金」の五種に分別することである。仏教の「地水火風空」の五大と類似している。言い換えれば、「跳出三界外、不在五大中」と。「貪嗔癡」の三毒を断ち切るには必ず如法に修行をすることが必要で、その結果は三界の拘束を受けない。つまり修行して三界を超越すると、我々の物質的な身体の「五行」が変化を起こし、「五行規律」の制約から離脱できる。「五行」の変化は漸次変わることがあっても、勤勉に經律論の三藏を読み,絶えず思修し,慈悲深い心で六度萬行を施すことが必要である。そうすれば自分の身体の「五行」の構成が平衡で圓滿であることを感じることが出来る。「五行の場」を完成し、外界の五行要素の変化によっても、激しく変化することはない。言い換えれば、我々の体は「五行」の制限を受けなくなり、三界を超越(跳びだす)するのである。
毎日の朝、食堂で「蟲食偈」を詠むと、「私の体は八万戸あり、それぞれ九億虫がいる。濟彼身命受信施,私が仏になると先にあなたを救う」。我、眾生、如來は三三平等で、六度萬行はわれわれの身体の細菌を組織の細菌とを「平等」にさせる。さらに、我々の身体細胞の一部になるようにする「免疫」が落ちてない限りは、細胞の間に攻撃などが起こさないようにする。
免疫系統は、一つ一つの固体が「非自体物質」を識別するものであって、(通常は外來的な病菌である)、その「非自体物質」を消滅、排除したものに対する細胞全体の反応の総称である。これは、細胞自身あるいは組織から非自体物質を識別できる(病毒から寄生蟲まで全部)。外来物の識別の難しさは、病菌が新しい方式に適応および進化して、宿主を感染させるからである(31)。
しかし、我々固体の遺伝の差異および我々自身の「霊魂」の流転の業力の差異によって、同じく修行したとしても、異なる個体はやはり結果としては異なる。だから、修行者の全員が同じように舍利と肉身不壞が現れるのではない。じつは、「遺伝基因」と「業力」は、同じ概念でありながら不同の表現である。すなわち、同じ要因の物質表現と精神化の表現である。
仮説3、肉身不壞、舎利、虹とは、物質の精神化と精神の物質化の表現である。
人間の身体は、大体二つに分けられる。物質化の肉体と精神化の霊魂である。ところが、この二つは身体という意味では、一体化されたものであって、不可分である。しかし、物質と精神の性質はやはり違う概念である。ゆえに、我々はこの二つの間に「臨界狀態」があると仮説できる。ここで言う「臨界狀態」は、物質化だけの構成としてみるのではない。純粹な理論的な仮説である。なぜなら、生命体の存在状態の下で、肉体と精神は不可分的であるためである。
現代医学の知識によれば、われわれの体には二つの抑制系統がある。つまり、神經系統と內分泌系統である。ところが、伝統的な漢方医学では、経絡系統を堅持し、認めてきた。長い漢方医学歴史も経絡系統の存在は疑うことではないとして証明している。しかし、現代西洋の科學者は、物質の実証手段をもって経絡を研究してきたが、精神を含めた人間全体から見ると、小しの晶体しか発見していない。つまり、経絡の物質的な基礎さえも証明できていないのである。
では、経絡はいったいどんなものであるのか。以下に見ていく。
経絡理論を探ってみよう。「経」は「徑」の意味をもっている。路徑が各所に通じており、通達していくようなものである。直行的な主幹線である。「絡」は「網」の意味である。横断する網絡を連結するものである。旁枝ともいえる。この網絡は、人体の上下、左右、前後、內外等を連結し,深く淺くに五臟(心、肝、脾、肺、腎)、六腑(膽、胃、大腸、小腸、膀胱、三焦)、頭面、軀幹、四肢等を全て連結している。真氣で全身の細胞生理を促進する役割をする。生命を顕現する現象である。
修行者は、この経絡を十二経脈、奇経八脈、十二経別、十二経筋、十五絡,および多くの絡脈と孫絡脈などの総称であると言っている。
経絡の役割について触れておく。経絡は氣血を通し、人の栄養と活動功能を維持させる役割をする。これ以外に、また「衛氣」が体表の経絡のなかで運行させる役割をする。このような衛氣は、人体の健康を保護し、疾病の侵犯を防疫する役割をする。つまり、経絡は正常の状態では、外界の病菌が侵入することを防ぐ役割をする。経絡が、人体の內外、上下などの全部を一つに連結するために、內外環境の統一と平衡を保つことができるのである。
氣が通るとは、百脈が滞りなく通じるということである。気が詰まってしまうと、百病が起こることになる。これは、長い年月の真理である。したがって、氣血の運行は経絡が通じているか否かによって決められている。このことは漢方医学に詳しい人は誰もが知っている。人体の経絡は触ることができないが、確実に存在すると信じられている。現在、世界各地に流行している経穴の指圧,針灸の治療はすべてがこれをもとにしている。
実際、人体の経絡は人体の臟腑および体表のバランスを取る役割をしている。経絡が通じて、気血が全身で運行できることは、身体の各器官のエネルギーを補充することとなる。逆に経絡が塞がれると、外の悪いものが体表に入りやすくなり、人体の各処が病気になって現れる(32)。(經絡の図表三である)
十二経脈とは、人体気血を構成し運行する主な通路である。十五絡は、本經の脈絡に沿って循行する。互いに表裏する陰経と陽経の溝を通じさせて、十二経脈が四肢のなかで互いに轉注できる紐帶となる。これらは十二経の全体的な運行にかかわっている。奇経八脈とは、絡臟腑にも属さなく,表裏の配偶もないため,特殊な機能として「奇経八脈」と呼ぶ。経絡系統のなかでは、十二経脈を主體とする。このほかに、奇経八脈の中、任督二脈がもっとも重要であるため,十二経脈と一緒に十四経と呼ぶ。
十二經脈の各經脈には、それが属する臟腑が在る。手足の三陰三陽とそれぞれが属する臟腑から命名されている。臟に属するのは陰經、腑に属するのを陽經と呼ぶ。
手三陰經とは、手太陰肺經、手少陰心經、手厥陰心包經である。
手三陽經とは、手陽明大腸經、手太陽小腸經、手少陽三焦經である。
足三陰經とは、足太陰脾經、足少陰腎經、足厥陰肝經である。
足三陽經とは、足陽明胃經、足太陽膀胱經、足少陽膽經である。
督脈とは、脊背にいて,諸陽經が集まるところが督脈であるため,總督一身になる陽經である。總督一身する陽氣の役割があるため,「陽脈の海」とも呼ぶ。
任脈は、胸腹の正中にある線で,全身の陰經が集まるところであるため,全身の陰氣を総督する役割があるため,「陰脈の海」とも呼ぶ。
人体は正常の狀態では、經絡の機能と役割は規律的である。『黃帝內經——靈樞——經別第十一』には、このように書いてある。「夫十二經脈者,人之所以生,病之所以成,人之所以治,病之所以起,學之所以始,工之所止也。」(33)もし、病気が発生すると症候が表われる。この規律を知って、變化を観察することができると、生理、病理、診斷、治療等での識別・治療の根拠になる。
『黃帝內經——靈樞——經別第十一』には「經脈者,所以行血氣而營陰陽,濡筋骨,利關節者也。」(33)とある。經絡はまるで、一つの網絡系統のように、氣血を輸送し,五臟六腑、四肢關節、筋骨皮肉等を連結して全身に伝えられていく。そこで人体の臟腑、四肢、百骸、皮毛、肌肉、血脈等の組織と器官は、有機的な全体的な活動をすることができる。氣血は人体の生命活動の物質基礎であるため,必ず經絡の運行に基づいて行わないと、全身に伝えることができない。溫をもって、全身の各臟腑の組織器官を潤沢し、身体の正常的な機能を維持する。これによってこそ、正常的な生理活動を進行することができる。つまり、氣血を通じさせ,全身に栄養を与え,身体の機能を調整し、身体の防禦能力を高めるのである。
以上からして、われわれは經絡系統が人体の物質と精神の臨界狀態であると仮説することができるのである。二種類の状態の特性を現すということである。言い換えれば、經絡系統は必ず物質化の表しと精神化の表しがある。実際、經絡は確かにこのような特點がある。これにより、われわれの物質的な体は調整できるのである。
瑜珈術の「三脈七輪」にも似たような役割を述べている。
人体の三脈:
中脈,海底輪(尾骶骨下端)から始まる。人体の脊椎前に沿って、上に向って腦に直達し、頂輪の後に至って,前のほうに曲がって,兩眉の間の眉心に直達する。眉心は、また各種の宇宙のエネルギーが人体に入る通路でもある。修持をとおして,中脈が頂門處にある通口を打開すると、宇宙のエネルギーが体內に進入し、人体神識が人体を跳び出すもっともふさわしい通路となる。
生理機能からみると、中脈は人体の脊椎の前に位置して、腦につながる。中脈の修持は,直接人体の脊椎と腦の機能のために鍛えてある。腦と脊椎は、人体の神經系統であって、腦と脊椎管內の脊髓は人体の中樞神經である。腦の表面には、12對腦神經がある。脊髓の兩側は、また31對脊髓神經に繋がれている。內臟神経が分けられ、三者が人体の周囲神経系統を構成する。
左右の二脈は人体の左右の二つの鼻の穴につながる。上は腦につながり,夾中脈は下につながる。平等に臍下四指のところの生法宮に置かれてあって、中脈と會合する。そのなか、左脈を水脈とし、陰に属するため、太陰脈と呼び、右脈を火脈とし、陽に属するため、太陽脈と呼ぶ。
左右の二脈は脊椎前の中脈の兩側にある。生理機能からみると、二脈と內臟神經の交感神經と副交感神經は対応する。左脈は副交感神經を主管し、右脈は交感神經を主管する。人体の三脈は、人体の全部の神經系統を管理する。瑜伽の修持をとおして,人体系統の機能を高めることができる。
七輪:下から上をみると、以下の如くである。
(1)根輪(純真輪MoodadharaChakra)
(2)腹輪(真知輪SwadisthanChakra)
(3)臍輪(正道輪Nabhi或ManipuraChakra)3a幻海(Void或OceanofIllusion)
(4)心輪(仁愛輪Heart或AnahataChakra)
(5)喉輪(大同輪VishuddhiChakra)
(6)額輪(寬恕輪Agnya或AjnaChakra)
(7)頂輪(自覺輪SahasraraChakra)
(図表四である)(34)
瑜珈術の中の「三脈七輪」は、まだ現代醫學では実証されていない。われわれは、經絡と同類あるいは類似している人体の物質と精神の「臨界狀態」を仮設することができる。
もし、經絡と瑜伽の三脈七輪は、人体が精神の臨界狀態とはならないと仮設するならば、次のような仮説が出てくるだろう。実驗室の中ではこれらの身体の物質基礎を証明することができない。実際身体は確実に微妙な人体の調節機能を生じる。我々の「意念」は、我々の物質的な体を生み出し、また変化させることが出来ると理解できる。もし理論上でこの仮設が正しければ、三密相應のなかの本尊觀想は、非常に合理的であると解釋できるだろう。本尊を観想し、圓滿殊勝の形象となり,精神エネルギーの役割で、我々の身体も漸次本尊と同じになっていくのである。
仮設4、修行者による「精神エネルギーの場」
精神エネルギーの場は、物質化として表わすことができる。このような物質化の表現は、我々の身体が病気となることが少なく、あるいは病気を生じなくすることとなる。ないし我々の生命機能が運動を停止した後も、「精神エネルギーの場」が依然として我々の肉体が大腸菌によって分解・破壊されないよう保護し、あるいはわれわれの身体が火葬されても「精神エネルギーの場」が舍利に転化する。または、「精神エネルギーの場」が我々の物質的な体を「火光三昧」の現象に変化させる。精神エネルギーと物質エネルギーは同じくすることは出来ない。精神的な屬性は、物質的な実証手段によって測ることが難しいが、我々の「意念」と切っても切れない。もし、我々が、「意念」を大まかに積極と消極に分けると、積極的な「意念」が形成する精神エネルギーは、我々の物質的な身体に対して、積極的で前向きなものを加えることができる。ところが、もし消極的な「意念」であると、消極的な精神エネルギーの場を形成し、われわれの物質的な身体を衰弱させるという消極的な役割となる。仏教の修行は実際、「慈悲喜捨」の積極的な意念と行為の役割である。したがって、精神エネルギーの場は積極的で前向きである。精神エネルギーが強くなると、我々の生命体の存在状態のもとで、我々の物質的な身体をより強めることができる。だから、病気と災難を少なくすることが出来る。これが「仏菩薩保佑」のホログラフィーの意味である。
三、仏教修行における神通力の意味と現代哲学の解釈に関する仮説
1.問題所在
仏教哲学では、唯識論と物質論との完璧な結合と認めている。仏教では、六つの神通力がある。天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通、漏尽通である。神通力とはどんな力であるのだろう。神通力を不思議な現象とみるならば、仏教と密教の修行は解釈不可能なものになる。では、神通力という能力がわれわれ自身から生まれてくるだろうか。現代科学理論の発展に伴って、このような能力も我々自身の体の中の細胞に本来持っている能力であることをわかった。以下、神通力という能力について述べていきたい。
2.經典解釈
『大正藏大般若波羅蜜多經卷第九——初分轉生品第四之三』によれば、「復次舍利子。有菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。能引發六神通波羅蜜多。何等為六。一者神境智證通波羅蜜多。二者天耳智證通波羅蜜多。三者他心智證通波羅蜜多。四者宿住隨念智證通波羅蜜多。五者天眼智證通波羅蜜多。六者漏盡智證通波羅蜜多。」(35)という記載がある。
ここには非常に明確に意味を表している。波羅蜜多行方のみ六神通があらわれる。しかし、波羅蜜多はもともと智慧であるため、六神通は六波羅蜜の智慧である。經文の中の六神通を順番に神足通、天耳通、他心通、宿命通、天眼通と漏盡通になる。六波羅蜜行は言うには簡單だけど、行動するにはむずかしいことである。華譯六度は,すなわち檀那(布施)、尸羅(持戒)、羼提(忍辱)、毗離耶(精進)、禪那(禪定)、般若(智慧)である。もし六度できない場合顯教行者であれ密教行者であれ成仏は論じられない。六度は、必ずわれわれ生活の一言一行の隅々までいたって、如法修行が戒律を守って修行しないと、仏教の「說教者」にしかならない。
3.六度の現代科學的な哲學觀とそのホログラフィーの意味
六神通のホログラフィーの意味を解釈する前に、われわれは必ず現代天体物理學と、さらに量子物理學の理論を認識しなければならない。
大爆発理論(BigBang)は、天體物理學の宇宙起源に関する理論である。大爆発の理論に基づいて、宇宙は約一百四十億年前に、一つの密度が高くて、溫度が高い狀態から演繹されてきたのである。このような初発狀態の中では、宇宙の物質とエネルギーの溫度、密度は極端的に高い。これ以前に何が發生したのかについては、広義相對論によると、一つの引力奇點があったというが、これについては物理學者たちは意見が統一しない。
大爆発という言葉は、狹義上宇宙が最初一段時間を形成するにあたって經曆した劇烈な變化である。この時間を計算すると、今から約一百三十七億年前である。広義上では、現在流行している宇宙の起源と膨脹の理論である。この理論の直接的な推論によると、われわれが今置かれてある宇宙と以前あるいは以後に置かれる宇宙の異なりが理解できる。この理論に基づいて、前ソ連の物理學者喬治•伽莫夫は、1948年に宇宙の微波背景輻射の存在を予測した。前世纪六十年代,この輻射は探測されたことがあるため、大爆発の理論を大いに支持することができた。
ここから、「奇点」理论と「黑洞」理论が出された。簡単に言うと、いわゆる「奇点」というのは、質量が無限に大きく、体積が無限に小さい「点」である。宇宙は、「奇点」からどんどん膨胀してきたものである。「黑洞」は、絶えず星体を吸収し、新「奇点」に変化されたものである。実は、この道理は、中国の伝統道家の哲学の「原始反终」と同工異曲である。道家は、宇宙は「無」から起源し、「無」から「有」に演繹されたと見ている。そして再び「無」に回帰する状態を言う(自己の体認)。道儒の說は、陰陽に分別することは、実はこの「有」と「無」を指している。
『周易系辭上傳』には次ぎのように言っている。
「天尊地卑,乾坤定矣。卑高以陳,貴賤位矣。動靜有常,剛柔斷矣。方以類聚,物以群分,吉凶生矣。在天成象,在地成形,變化見(現)矣。是故剛柔相摩,八卦相蕩。鼓之以雷霆,潤之以風雨;日月運行,一寒一暑。乾道成男,坤道成女。乾知大始,坤作成物。」(36)
もし、ホログラフィーの科學哲學の視点からこの段落の大意を理解するならば、「有無」、「陰陽」、あるいは「物質と精神」の相乗的、弁証的な関係を指している。
宇宙の大爆発理论はすでに一般的に受け入れられている。ところが、「奇点」と「黑洞」の理论に関しては、まだ多くの新しい問題が表れている。イギリスの著名な物理学者霍金(StephenWilliamHawking)は、違う仮設を提起した。しかし、本論にはそれほど影響を与えなかった。
現代科學は物質の実証研究にしか注目していない。「精神」の研究は軽視している。これはまさに、現代科學が理論の完成として不完全なところである。同じく、現代の仏教
の研究も考古式文獻學のみの研究に傾いている。伝統道家の經典『道德經』第四十七章には次のように書かれてある。
「不出戶﹐知天下﹔不窺牖﹐見天道。其出彌遠﹐其知彌少。是以聖人不行而知﹐不見而明﹐無為而成。」(37)
この意味を簡單に解釋すると、「秀才は門を出ずに天下の事を知る」という意味になる。現代の実証式な(文献学を中心とする)仏教研究は、仏教を知識として学んでいる。修行によって覚悟する菩提道場では無くなっている。このような研究はわれわれを知識の海洋に埋没させるしかない。智慧を開発するには弊害多く、修行が更に無意味なものになっている。仏教本来の信仰がなくなっている。
東洋哲學であれ、西洋哲學であれ、その中は大きく二つの流れに分けられる。唯物主義と唯心主義である。兩派の基本的な哲學觀には「物質」と「精神」の両方が内在する。二者の区別は、唯物主義は、物質を第一義とし精神を第2義に据えることである。先に物質があって精神が次にあるという観点である。つまり、物質が精神を決定することである。唯心主義は、逆に精神を第一義とし物質を第2義とする。先に精神があって、物質が次にあるということである。つまり精神が物質を決定するという観点である。だが兩派の觀點とも不完全なものである。最も完全なのは、両派の理論の完璧な結合である。仏法は、実に兩派の理論の事實上の完壁な結合である。
『金剛般若波羅蜜經』には次の如くある。
「世尊。如來所說三千大千世界則非世界。是名世界。何以故。若世界實有者則是一合相。如來說一合相則非一合相。是名一合相。須菩提。一合相者則是不可說。但凡夫之人貪著其事。」(38)(39)
ここで言う「一合」は、「物質」と「精神」の「一合」であると理解することができる。つまり「物質」と「精神」はもともと分けられるものではない。通俗的に理解すると、物質が精神であり、精神がまさに物質である。物質は精神に転化することができるし、精神も物質に転化することができる。たとえば、我々の目の前に一つの物体があるとしよう。もし、我々が物体を移動してしまうと、先ほど物体が存在した空間は何であろう。少なくとも理論上、物体は「虛」体だと言えるだろう。しかし、実際上物体が移動されたので、もとの場所には何者も存在しない(空氣に満ちられている)のである。つまり物体が移動すると精神も同時に移動する。即ち物体と精神は「一合相」である。唯物主義者には物質しか見えなく,唯心主義には精神しか見えなかったのである。不可說の「一合相」は仏家が言う宇宙觀である。仏家の宇宙觀のもう一つの意味は「三千大千世界」である。すなわち、「一微塵」である。「一微塵」は「三千大千世界」である。だから、法界は心にしか止らない。身外法界は相に属し,內心法界は理に属する。しかし理相は一體で,悟ったら無別で、そうではない場合には殊異になるわけである。
物质と精神の哲学関係も上記と同じである。物質はわれわれが親から遺伝された肉体と見ることができる。精神はわれわれの「靈魂」とみることができる。言い換えれば、物質と精神の関係は、まさに肉體と靈魂の關系である。物質は物質不滅定律によって生生滅滅する。しかし靈魂は則ち六道の中において不斷輪回し,覺悟しなければ出離することができない。現代人は、現代科學技術に薫陶して、輪回に対して依然として信じない。しかし、仏教の理論に基づくと、靈魂はいつも「天、人、修羅、地獄、餓鬼、畜牲」の六道にある。そして不斷に循環往復するのである。
4、六神通の現代科學的哲學理論觀の仮設:
神足通というのは、思い通りにどこにも到達できる力、化身あるいは分身である。諸仏經の中で、全部佛菩薩が萬千に化身される記載がある。たとえば、『妙法法華經——觀世音菩薩普門品』のなかに觀音菩薩が三十三種の化身に変化できる記載がる。
「佛告無盡意菩薩。善男子。若有國土眾生。應以佛身得度者。觀世音菩薩。即現佛身而為說法。應以辟支佛身得度者。即現辟支佛身而為說法。應以聲聞身得度者。即現聲聞身而為說法。應以梵王身得度者。即現梵王身而為說法。應以帝釋身得度者。即現帝釋身而為法」(40)。
我々は観音菩薩の化身を化身と見なすことができるし,分身と見なすこともできる。いわゆる化身は変化身のことで,一つの体から他の形に変わる。分身は一つの体から数多くの他の形に分化するということである。我々は子供,少年,青年,老年時代と自分自身の化身として考えられる。もし我々は他人に変化できれば化身になるし,我々の体は新しい個体に分化できれば分身になる。実際に我々は一つの体しかないが,何故仏と菩薩には分身と化身があるだろう?仏経では「無量なる功徳」を成就しなければ達成できないとあり修行の重要性を強調している。
仏教には非常に重要な「輪廻」の概念がある。この概念が成立していれば,過去,現在及び将来の「我々」は自分の化身になる。密教の行者と本尊三密相應中の本尊は行者を化身と見なす原因もそこにある。分身の理論と仮説について後ほど述べる。理論上我々自分自身の化身の問題が解釈できれば,我々はどこでも,いつでも,どんな時空においても存在しているということは理論的に成立することになる。しかし,実際に“神足通”を成就するために,我々人間の体の細胞に蓄えているすべての潜在的な能力を発揮しなければならない。これなら机上の空論ではない。顕教の修行は“三大無数劫”を経て,絶えることなく続けて突き進まなければ成仏を実現できない。密教の“即身成佛”の思想を確立するには,如法持戒修行のような厳格な三密修行が欠かせない。但し,現代人は西洋の哲学と科学の知識を受け入れたので,既にそれを空中楼閣のように考えられている。修行者で理論を説く者は無数にいるが,実際に仏教に従って修行する人はごくわずかである。経典と仏教の歴史はそれが実現できると証明してくれている。例えば,『神僧傳第三卷』“杯渡”ではこのように書いてある。
「杯渡者。不知姓名。常乘木杯渡水。人因目之。初在冀州不修細行。神力卓越世莫測其由少時遊止無定。請召或往不往。時南州有陳家。頗有衣食。渡往其家甚見迎奉。聞都下復有一杯渡。陳父子五人咸不信。往都下看之。果如其家杯渡。形相一種。陳設一合蜜薑及刀子薰陸香手巾等。渡即食蜜薑都盡。餘物宛在膝前。其父子五人恐是其家杯渡。即留二弟停都守視。餘三人還家。家中杯渡如舊膝前亦有香刀子等。但不噉蜜薑為異爾。乃語陳云。刀子鈍可為磨之。二弟還都云。彼渡已移靈鷲寺。其家忽求黃紙兩幅作書。書不成字。合同其背。陳問上人作何券書。渡不答頃世亦言時有見者。」(41)
天眼通:遠近を問わず,大小にかかわらず,どんなものでも見ることのできる力。
周知のように,人間の肉眼の視力は限界がある。人間の目は赤外線と紫外線に及ばない。現代の科学機器を使えば,赤外線と紫外線を分別でき,電子天文望遠鏡の力を借りれば,遠い所にある星も観察できる。これらは理論的に天眼通は実現できることの確認であるが,大多数の人は科学機器を使わなければならないと考えている。
仏教の天眼通は実現できるだろうか?この問題は仏菩薩しか答えられないかもしれない。しかし,仏菩薩は結局人間が修行したものである。すなわち理論上人類自身がこの問題を答える“可能性”を持っていることになる。ここでいう天眼通とは実に見える物質的な宇宙だけではなく,“精神宇宙”,つまり十法界のことも含まれている。言い換えれば,天眼通の能力は“精神宇宙”を見えることも含むべきで,天眼通には“思う視力”も揃わなければならない。人類の最大な視力が10キロであれば,20キロ先のものをみるために10キロ地点に移動しなければならない。しかし,実際に10キロ地点に立つなら,天眼通とはいえない。そこは一つのやり方しかない。すなわち我々の思いは我々の目を10キロの所におくことである。思いの力は精神力で,神足通の能力を持っていれば,自然に天眼通の能力も持つこととなる。現実的にはこれらの答えはまだ我々の体,あるいは魂の中に潜んでいる。十法界のホログラフィック意義そのものは我々の中にあり,それゆえ天眼通は一種の精神能力であるといえる。
我々の体には無数の細胞があり,それぞれの細胞は理論上新しい個体をクローンすることができる。そうすると無数の個体がクローンでき,そのクローンされた個体はまた無数の新しい個体をクローンできる。これは天眼通と天耳通の物質的な基礎の仮説である。宇宙はホログラムのようなものであると仮設しよう。ホログラフィック原理というのは一つの物からその他のあらゆる物,局部から全体を推知するものである。生物ホログラフィック説は中国山東大学張頴清教授が1973年に発表した理論である(42)。「ホログラフィー」を簡単に解釈すると,人体のある機能,独立した構造の部位あるいは組織は,体全体の情報を完全に反映することである。例えば,一枚の木の葉からその樹木全体のことを推知でき,一本の指から人間の体の全体を推知でき,一個の細胞から生物体の全体を推知できることである。範囲を広げて言うと,我々は一粒の埃から地球のことを知り,地球から太陽系全体を知り,太陽系から銀河系を知り,銀河系から宇宙全体を知ることになる。推知と
いうのは思想活動あるいは考える活動である。「宇宙ホログラム」の概念が成立すると仮定すれば,人類の思いは宇宙全体について分かるはずである。言い換えれば,人類の目は宇宙のすべてが見え,耳は宇宙すべての音が聞こえることになる。中国の『易経』はホログラム宇宙を表す哲学著書であり,その思想および道家始祖老子の『道徳経』の哲学思想は、仏教のホログラフィック思想に包括されている。『一切如來全身舍利寶篋印陀羅尼經』には次の如くある。
「佛言諦聽汝金剛手。後世若有信男信女及復我等四部弟子。發心書寫此一經典。即准書寫九十九百千萬俱胝如來所說一切經典。即過於彼九十九百千萬俱胝如來之前久植善根。即亦彼諸一切如來。加持護念猶如愛眼。亦如慈母愛護幼子。若人讀誦此一卷經。即為讀誦過去現在未來諸佛所說經典。」「復次佛告金剛手言。若有眾生書寫此經置塔中者。是塔即為一切如來金剛藏窣都婆。亦為一切如來陀羅尼心祕密加持窣都婆。即為九十九百千萬俱胝如來窣都婆。亦為一切如來佛頂佛眼窣都婆。即為一切如來神力所護。」(43)
上記の経文は仏教真理のホログラフィック性を反映している。三蔵を暗記できても仏教の真理を悟るとは限らず,紙上で文章に没頭するだけでは、仏教の悟りには程遠い。弘法大師に“佛法非遙心中即近,真如非外棄身何求”(44)という名句がある。仏経をいくつか読み,仏教の歴史をすこしかじるぐらいで自分が仏教に精通していると勘違いする人は夜郎自大にほかにない。
物理学において,“質量保存の法則”と“エネルギー保存の法則”は最も基本的な法則の二つである。もし物質的なエネルギーが精神的なエネルギーに変わる場合,エネルギーはどのように保存するだろう?基本的な哲学的な観点からみれば,物質と精神的な哲学は相互依存し,互いに転化できる。仏経の研究は歴史研究ではなく,「心」の活動も研究しなければならない。仏は人間が修業することであり,仏経に関する研究も人の研究から離れることができない。人体における生物学的な研究だけではなく,人間の精神活動についても研究する必要がある。言い換えれば,人間の魂の実質を究明しなければならない。“質量保存の法則”によると,我々はホログラフィック的に理解すれば,宇宙の中の物質と精神がすべて保存できることになる。「六道」に流れているすべての魂もこの法則に準ずることになる。物質的な宇宙はホログラフィック世界であれば,それに対応している精神的な宇宙はホログラムである。すなわち,一つの魂から宇宙のあらゆる精神を推知できることになる。魂は物質的な精神の「体」に対応している。
天耳通:世の中すべての音・声を聞き分ける力。
天眼通の理論仮説とほぼ同じである。
他心通:他人が心に思うことをすべて知ることができる力。
我々はホログラフィック原理を借りて仮説を立てると同時に,「宇宙大爆発」理論を借用して,宇宙の万物はすべて再爆発により始まると仮設する。さらに,大爆発が起きた当初生じたあらゆる物質の成分に対して追跡観察を行うと仮設して,長い歳月の中で宇宙のすべての物質の運行の軌跡およびそれが生じた変化は追跡観察の資料からホログラフィック的に把握できることになる。宇宙の中で既に発見された物質の種類は103種類あって,疑うことなく科学技術の発展につれて,さらに新しい元素を発見することは可能である。生命体を構成する元素の中で最も多いのは炭素C,水素H,酸素Oと窒素Nの4種類である。人類において構成元素は基本的に同じである。これらの元素は宇宙大爆発と同時に産出された場合,人間の体の中の炭素C,水素H,酸素Oと窒素Nは長い歴史の中での変化する情報を見つけることは,人類の機体の中にある炭素C,水素H,酸素Oと窒素Nの歴史を知ることになる。これは他心通理論の物理学の基礎である。しかし,人間は魂を持っている。ある魂のすべての情報により他の魂のことを推知できれば,他の人の精神活動を知ることになる。
宿命通:自分と他人の過去世の状態を知ることができる力。
宿命通というのは魂が運行する軌跡において,すべての情報とそれと関連する物質活動の歴史の過去の再現,現在の様子と将来の推測である。その実質は精神情報のホログラフィック性である。
漏尽通:煩悩のけがれのなくなったことを確認する力。
ここで新しい概念である「摂食」を導入しよう。文字とおり「摂食」は物を体の中に入れて,消化吸収するという意味である。しかし,ここの「摂食」は物質を摂取するだけではなく,精神情報エネルギーを摂取することも含まれている。『金剛界五悔』と『胎藏界九方便』は実は精神的エネルギーの交流で,修業者の精神的エネルギーと仏菩薩の精神エネルギーの相互作用の結果である。人の褒め言葉で嬉しくなるとすれば,それは賛美の言葉に褒められたものにとって積極的で,愉快になる「精神情報エネルギー」が含まれているからである。同様に皈依,懺悔,勸請,隨喜,回向等も精神的情報エネルギーの交流として考えられる。仏は宇宙ホログラムと合体した精神体である。修業者の仏に対する供養は、精神エネルギーの供養で,仏からの供養を受けることは「摂食」といえる。前に物質と精神は互いに転換できると述べた。もし我々は精神的なエネルギーを摂取することができれば,その精神エネルギーは物質エネルギーに転化することもできる。道家の修業において重要な“辟谷”という概念は,数日間食べず飲まずに生命活動を正常に維持することである。仏壇に花や線香を供養することは,人間の虔誠を現すだけではなく,仏の精神体との情報エネルギーの交流である。
漏尽通は名のとおり,漏れることはすべて絶えるという意味である。簡単にいえば新陳代謝の停止になる。我々は「摂食」することができれば,代謝機能は休むことができるようになる。
5、神通力の例
(1)鳩摩羅什,歴史上有名な仏教の翻訳者である。『大正蔵』『神僧传卷第二』には彼の神通力は次の如く述べられている。
「什未終少日。覺四大不寧。乃口出三番神咒。令外國弟子誦之以自救。未及致力轉覺危殆。於是力疾與眾僧告別曰。因法相遇殊未盡心。方復後世惻愴何言。自以闇昧謬充傳譯。凡所出經。論三百餘卷。唯十誦一部未及刪繁。存其本旨必無差失。願凡所宣譯傳流後世咸共弘通。今於眾前發誠實誓。若所傳無謬者。當使焚身之後舌不焦爛。以弘始十一年八月二十日卒于長安。是歲晉義熙五年也。即於逍遙園依外國法以火焚屍。薪滅形碎惟舌不灰爾。」(45)
鳩摩羅什の死に際しての遺言である。もし私が翻訳した経典に誤りなければ,私は火葬以後の舌は腐らないと願おう。鳩摩羅什の舌は腐らなかった。
(2)金剛智『大正藏——神僧卷第七』
「至開元中達于廣府。後隨駕洛陽。其年自正月不雨迨于五月。嶽瀆靈祠禱之無應。乃詔智結壇祈請。於是用不空鉤依菩薩法。在所住處起壇。深四肘。躬繪七俱胝菩薩像。立期以開光明日定隨雨焉帝使一行禪師謹密候之。至第七日炎氣爞爞天無浮翳。午後方開眉眼即時西北風生。飛瓦拔樹崩雲泄雨。遠近驚駭。而結壇之地。穿穴其屋洪注道場。質明京師一庶皆云。智獲一龍穿屋飛去。求觀其處日千萬人。」
「初帝之第二十五公主甚鍾其愛。久疾不救移臥於咸宜外館。閉目不語已經旬朔。有敕令智授之戒法。此乃料其必終故有是命。智詣彼擇取宮中七歲二女子。以緋繒纏其面目臥於地。使牛仙童寫敕一紙焚於他所。智以密語咒之。二女冥然誦得不遺一字。智入三摩地。以不思議力令二女持敕詣琰摩王。食頃間王令公主亡保母劉氏護送公主魂。隨二女至。於是公主起坐開目言語如常。帝聞之不俟仗衛馳騎往于外館。公主奏曰。冥數難移。今王遣回略覲聖顏而已。可半日間然後長逝。自爾帝方加歸仰焉。」
「至二十年壬申八月既望。於洛陽廣福寺命門人曰。白月圓時吾當去矣。遂禮毘盧遮那佛旋繞七匝。退歸本院焚香發願。頂戴梵夾并新譯教法。付囑訖寂然而化。」(46)
(3)無畏三藏『大正藏神僧传卷第七』
「三藏飲酒食肉言行麤易。往往乘醉喧競穢污茵席。宣律頗不能甘之。忽中夜宣律捫虱將投于地。三藏半醉連聲呼曰。律師律師撲死佛子耶。宣律方知其為異人也。整衣作禮而師事焉。」
「在洛時有巨蛇高丈餘長且百尺。其狀甚異。蟠繞出於山下。洛民咸見之。畏語曰。此蛇欲決水瀦洛城。即說佛書義。其蛇至夕則駕風露來。若傾聽狀。畏責之曰。爾蛇也。當居深山中用安其所。何為將欲肆毒於世耶。速去無患生人。其蛇聞之若有慚色。遂俯于地頃而死焉。」
「開元十年七月旱。帝遣使詔無畏請雨。畏持滿缽水以小刀攪之。誦咒數番。即有物如蚪龍從缽中矯首水面。畏咒遣之。白氣自缽騰涌。語詔使曰。速歸雨即至矣。詔使馳出。頃刻風雷震電。詔使趨入奏。御衣巾已透濕。霖雨彌日而息。又嘗淫雨逾時。詔畏止之。畏掜泥媼五軀向之作梵語叱罵者。即刻而霽。」(47)
(4)一行
『大正藏神僧传卷第七』
「一行因窮大衍。自此求訪師資不遠數千里。嘗至天台國清寺見一院。古松數十株門前有流水。一行立於門屏間聞院中僧於庭布算。其聲蓛蓛。既而謂其徒曰。今日當有弟子求吾算法。已合到門。豈無人導達耶。即除一算。又謂曰。門前水合卻西流弟子當至。一行承言而入。稽首請法盡授其術。而門水復東流矣。自此聲振遐邇。」
「初一行幼時家貧鄰有王姥。前後濟之約數十萬。一行嘗思報之。至開元中一行承玄宗敬遇言無不可。未幾會王姥兒犯殺人。獄未具。姥詣一行求救。一行曰。姥要金帛。當十倍疇也。君上執法難以請求如何。王姥戟手大罵曰。何用識此僧。一行從而謝之。終不顧。一行心計渾天寺中工役數百。乃命空其室內。徙一大甕。於中。密選常住奴二人。授以布囊。謂曰。某方某角有廢園。汝中潛伺從午至昏。當有物入來。其數七者可盡掩之。失一則杖汝。如言而往。至酉後果有群豕至。悉獲而歸。一行大喜。令寘甕中覆以木蓋。封以六一泥。朱題梵字數十。其徒莫測。詰朝中使叩門急召至便殿。玄宗迎問曰。太史奏。昨夜北斗不見。是何祥也。師有以禳之乎。一行曰。後魏時失熒惑至今帝車不見。古所無者天將大警於陛下也。夫匹夫匹婦不得其所。則隕霜赤旱。盛德所感乃能退舍。感之切者其在葬枯出擊乎。釋門以瞋心壞一切善。慈心降一切魔。如臣曲見莫若大赦天下。玄宗從之。又其夕太史奏。北斗一星見。凡七日而復。」(48)
(5)不空『大正藏神僧传卷第八』
「既達師子國。王遣使迎之。極備供養。一日王作調象戲。人皆登高望之無敢近者。空口誦手印住於慈定。當衢而立。狂象數頭頓皆踢趺。舉國奇之。」
「至天寶五載還京。是歲終夏愆陽。詔令祈雨。制曰。時不得賒雨不得暴。空奏立孔雀王壇。未盡三日雨已浹洽。帝大悅。」
「又以京師春夏不雨。詔空祈請。如三日內雨是和尚法力。三日已往而霈然者非法力也。空受敕立壇。至第二日大雨云足。一歲復大旱。京兆尹蕭昕詣寺謂為結壇致雨。不空命其徒取樺皮僅尺餘。繢小龍於其上。而以爐香甌水置于前。轉吹震舌呼使咒之。食頃即以繢龍授昕曰。可投此于曲江中。投訖亟還。無冒風雨。昕如言投之。旋有白龍纔尺餘。搖鬣振鱗自水出。俄而龍長數丈。狀如曳素。倏忽亙天。昕鞭馬疾驅未及數十步。雲物凝晦暴雨驟降。比至永崇里第衢中之水已決渠矣。」
「至永泰中香水沐浴東首以臥。比面瞻禮闕庭。以大印身定中而寂。茶毘火滅。收舍利數百粒。其頂骨不燃。中有舍利一顆。半隱半現。敕於本院別起塔焉。」(49)
以上、密教僧の神通力について現れているところを指摘した。
神通の例は仏典や仏教記録の中で数え切れないほどたくさんある。上に述べた例からも仏法の修業により神通を現わすことが確かに出来ることが分かる。
仏法において,顕教でも密教でもその求めるところは真理である。現代科学の中の多くの観点も真理の追求である。真理は真理によって解釈出来るべきである。言い換えれば,仏法は現代科学哲学の理論で解釈されることができるはずである。仏経の解釈に関して,伝統的なのは「経によって経を解釈する」ということであるが,そのやり方は正しい。より多くの人に仏法のホログラフィック哲学科学性を知ってもらうためには,伝統的な研究方法は説得力に欠けている。仏教は実践的な哲学科学システムは必要であるが、その実践なしでは机上の空論になるだけである。現代の数多くの仏教研究は既に机上の空論となっていて,一部の仏教研究家は四六時中派手な空論を並べ立てるだけである。実際の修業に少しも役に立たない。
神通力は、経典の中でどのように解釈されているのだろう?
『大正藏——大般若波羅蜜多經卷第三初分學觀品第二之一』には、次の如くある。
「若菩薩摩訶薩。欲一念頃安立十方殑伽沙等諸佛世界一切有情。皆令習學四靜慮四無量四無色定獲五神通。應學般若波羅蜜多。」
「復次舍利子。若菩薩摩訶薩。修行般若波羅蜜多能如實知。如是布施得大果報。謂如實知。如是布施得生剎帝利大族。如是布施得生婆羅門大族。如是布施得生長者大族。如是布施得生居士大族。如是布施得生四大王眾天。或生三十三天。或生夜摩天。或生覩史多天。或生樂變化天。或生他化自在天。因是布施得初靜慮。或第二靜慮。或第三靜慮。或第四靜慮。因是布施得空無邊處定。或識無邊處定。或無所有處定。或非想非非想處定。因是布施得三十七菩提分法。因是布施得三解脫門。因是布施得八解脫。或八勝處。或九次第定。或十遍處。因是布施得陀羅尼門。或三摩地門。因是布施得入菩薩正性離生。因是布施得極喜地。或離垢地。或發光地。或焰慧地。或極難勝地。或現前地。或遠行地。或不動地。或善慧地。或法雲地。因是布施得佛五眼。或六神通。因是布施得佛十力。或四無所畏。或四無礙解。或十八佛不共法。或大慈大悲大喜大捨。因是布施得三十二大丈夫相。或八十隨好。因是布施得無忘失法。或恒住捨性。因是布施得一切智。或道相智。或一切相智。因是布施得預流果。或一來果。或不還果。或阿羅漢果。或獨覺菩提。或得無上正等菩提。能如實知。如是淨戒安忍精進靜慮般若。得大果報亦復如是。」「若菩薩摩訶薩。欲得五眼。所謂肉眼天眼慧眼法眼佛眼。應學般若波羅蜜多。復次舍利子。若菩薩摩訶薩。欲以天眼普見十方殑伽沙等諸佛世界一切如來應正等覺。應學般若波羅蜜多。若菩薩摩訶薩。欲以天耳普聞十方殑伽沙等諸佛世界一切如來應正等覺所說正法。應學般若波羅蜜多。」(50)
『大正藏——大般若波羅蜜多經卷第三百四十六』には、次のごとくある。
「善現。是菩薩摩訶薩能如是行甚深般若波羅蜜多。則令苦聖諦速得圓滿。亦令集滅道聖諦速得圓滿。善現。是菩薩摩訶薩能如是行甚深般若波羅蜜多。則令四靜慮速得圓滿。亦令四無量四無色定速得圓滿。善現。是菩薩摩訶薩能如是行甚深般若波羅蜜多。則令八解脫速得圓滿。亦令八勝處九次第定十遍處速得圓滿。善現。是菩薩摩訶薩能如是行甚深般若波羅蜜多。則令四念住速得圓滿。亦令四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支速得圓滿。」(51)
以上の経文の意味は、六波羅蜜を実行することにより,神通を獲得することが出来る。あるいは潜在能力を開発することが出来るようになる。六度萬行はなぜあらゆる仏典の中で繰り返して強調されるのだろう。その原因は、すでに充分解釈したように,筆者は六度萬行が我々の精神体と外部の環境の中のすべての精神体とを絶えず情報交換していることであると考えている。我々の体は一個の受精した卵子から、一人の成熟した生命に生育発達してきた。同じように我々の精神体も成長し続けることによって完成されていくものである。成育していく段階の過程では、精神体が完璧に発達できたというわけではなく,むしろ仏菩薩のようなより大きな精神体へ近づく道の始まりにすぎない。
6、神通力の現代哲学観仮説
自然科学から生命現象に対する解釈の記述をみると,生命は単細胞から変化してきたという論点を受け入れることができる。単細胞生命の段階において,一個の細胞は独立して色,音,香り,味,触,動くなどすべての生命活動の機能を担わなければならない。細胞は単細胞から多細胞へ変化し,組織器官の分化統合により,生命活動の機能も細胞間における役割分担が起こる。一部の細胞は色の識別(視覚)を担当し,同様に一部の細胞は臭い(臭覚),一部の細胞は触(感覚),また一部は運動を担当する。当然この過程は長い歳月をかけてようやく完成できることである。多細胞段階になると,細胞の機能の分化により,色を担当した細胞は音,香り,味,触、動くといった機能を「忘れ」,音を担当した細胞は香り,味,触、動くという機能を「忘れ」,味を担当した細胞は音,香り,動く機能を「忘れ」,触を担当した細胞は音,香り,味,動くという機能を「忘れ」,さらに,動くことを担当した細胞は音,香り,味,触という機能を「忘れて」しまう。
我々の体は一個の独立した受精卵から発展してきたと同じように,細胞はみな同一の細胞から分化し,発達しては全く同じである。そのため,我々は細胞のすべての活動機能は一個一個の細胞のDNAの中にも存在していると仮設できる。しかし生命活動が高級段階に入った今日,色覚細胞は単なる色覚(特に光に対して),聴覚細胞は音だけ,嗅覚細胞は嗅覚だけ,味覚細胞は味覚だけ,触覚細胞は触覚だけ,運動細胞は運動のみに携わっていることになっている。色覚細胞は聴覚,嗅覚,味覚,触覚および運動といった機能を「忘れ」,聴覚細胞は色覚,味覚,触覚,運動の機能を「忘れて」,味覚は色覚,聴覚,触覚を「忘れて」,触覚は色覚,聴覚,味覚,運動といった機能を「忘れている」。
細胞の機能は単一化されているが,それぞれの細胞の遺伝子はその中に他の細胞の機能の暗号,つまり「記憶」をもっていると考えられる。例えば色覚細胞は色を区別することができるが,他の「忘れていた」機能ももっている。もし色覚細胞のそういった機能の「記憶」を取り戻すことができれば,色覚細胞は同じように聴覚,嗅覚,味覚,触覚および運動などの機能を果たすことできるようになる。骨細胞は当然骨細胞を支配する機能をもっているが、記憶が回復すれば運動など「忘れられた」他の細胞の機能を果たすことができる。従って,運動細胞にも影響をもたらすことができるし,感じ取ることもできる。さらにニューロン信号の伝達もできる。同じように,他の細胞は理論上みな分化によって失われた機能を取り戻すことができる。
いずれにせよ,この仮説は理論上成立可能であると考えられる。この仮説は成立していれば,神通は生まれつきの能力であるが、普段人々は神通という能力を示していないため,人体の細胞がもっているすべての能力が発揮していないと考えられる。我々は日常生活の中でのあらゆる活動は人体能力のごく一部しか使っていなくて,いわゆるまだ現れていない本能は「潜在能力」と呼ばれている。神通は人類,およびすべての生命体の「潜在能力」であり,言い換えれば未知なる「潜在能力」である。
神通は潜在能力であると認識すると,さまざまな細胞の中における遺伝子DNAの情報ホログラムが同等であるため,神通のホログラフィック性が見えてくる。そうすれば,神通は「超自然」能力ではなく,仏教経典に記載されている「神通」も空中の楼閣ではなくなる。その結果,神通は神秘的なものや超自然能力ではなく,実際に本能として存在していることが確かめられる。
しかし,我々は何故「神通」をもたず,我々には「潜在能力」が現れないのだろう。
その理由は我々は輪廻の中で貪欲,怒り、無知ということに毒され,そのせいでもともともっている本性を遮っている。動物はなぜ地震の前に地震を感知できるのだろう?遠い昔の先祖たちは災難が来る前に災難を予知できたのだろう?その原理が同様である。つまり神通は超自然能力ではなく,もともと先天的に持っている能力である。神通を開発するために,仏経では持戒精進六度萬行慈悲喜舍四無量行といった修業を繰り返して強調している。つまり,「潜在能力」の開発には我々の身体が絶えず外部の環境と積極的に情報またはエネルギーの交流をすることが必要である。一個の原子に例えれば,原子核のまわりに回っている電子は、高いエネルギーを持つ段階に跳躍するために,外部からのエネルギーを獲得しなければならない。地下に眠っている宝は発掘によって現れるが,さらに精選する過程を通して宝のすべての特質が見えるようになる。人体の「潜在能力」の開発も同じである。
現代の生物遺伝技術は、単一細胞から新しい個体を作ることができるようになった。倫理学の問題を別にして,人体細胞から“新しい人”をクローンすることが理論上完全に成立する。人体の細胞の数は天文学的な数である。例えば,人体には10の20乗の細胞がある場合,理論上10の20乗の新しい個体がクローンできることになる。さらにこれらの新しい個体はまた同じように新しい個体をクローンすることができ,このように限りなく繁殖ことが出来る。仏陀,菩薩の化身は三千大千世界を作るという推論も現代の科学理論において成立している。これは人体情報のホログラグフィック性である。これもまた「一微塵涵三千大千世界,三千大千世界復入一微塵」という言い方のホログラフィック意義である。
しかし,「理論即実践」というわけにはいかない。仏陀の教法は実践真理の指導であり,潜在力を開発する指導でもある。仏経の経典である経,律,論(三蔵)は,聞,思,修を通して戒,定,慧を達成し,さらに戒,定,慧は神通に到達できれば成就することになる。
仏法は広くて奥深いホログラフィック科学システムである。釈迦牟尼の成仏は宇宙真理に対する徹底的な認識と確認に基づいている。
細胞に「忘れた」記憶を思い出させるためにどうすればいいだろう。細胞に「忘れた」機能を取り戻すことはできるだろう。その答えは「はい,できる」ということである。釈迦牟尼の実践によってこの二つの問題が回答された。
全力を尽くした修業を通して,釈迦の体はすべての細胞を100%発揮することができ,各種の神通をもつようになった。経を唱えたり,座禅をしたりするような修業は外から見ればそれほどきつい活動ではないかもしれないが,実際にそうではない。更に一歩深めて修業の精神的意味をみると,修業は積極的に健康な精神エネルギーの積み重ねであることがわかる。その積み重ねが一定の程度に達したら,我々が生まれながらもっている「潜在能力」を開発することができるようになる。仏教の修業は特に戒めを重視する。もし戒律がなくなったら,仏法も消滅してしまう。
仏教の記述は、愚かに編纂された歴史物語と誤解してはいけない。人体は何故「超能力」を持つことができるのかではなく、「超能力」は、人体がもっている本能なのである。
ここから推論できるように,すべては変えることができる。すべての生き物が成仏を目指す時、通過する道は修業である。仏教の法典をたくさん読み,教法に従って修業すれば益するところは大である。
四、戒めのホロフラフィックの意義:
仏教の戒律には不殺生がある。仏典では不殺生について詳細な解釈があるが、その大意は慈悲心のゆえにできる戒である。情をもっているものはすべて成仏できるといわれ,生きるものを殺して食べることは,仏を殺し,血を流させることと同じになる。不殺生という教法は我々の慈愛する心を育てるものである。
理論上次のように解釈することもできる。つまりすべての生き物が感情をもっている。これは現代生物学の数多くの実験によってすでに基本的に証明されている。命の意味は二つの部分が含まれていると考えられる。一つ目は肉体で,二つ目は魂である。魂は言い換えれば我々の精神の表れでもある。どんな命を殺す場合でも,殺されるほうは自分の命を奪うものに対して感謝,または嬉しい感情をもっているだろうか。答えはおそらく否定である。理論上,いずれかの命を殺す場合,殺されるほうは必然的に恐怖,怒り,恨みなどの感情はもっていると考えられる。物質は精神と一体であり,恐怖,怒り,恨みなどの精神的情報のエネルギーも必ず肉体と一体化する。殺してその肉を食べるのは、体は物質的な体の需要を補うため,脂肪や蛋白質を吸収するのである。精神も必ずその肉体に含まれている「恐怖,怒り,恨み」などを吸収することになる。そうすれば,それら消極的な精神情報エネルギーは物質的な身の中で積み重ねて増えていくことになる。
哲学の基本的な課題は既に物質と精神との間の相互作用を認めている。精神の身に蓄積されたネガティブな精神情報エネルギーは、ある一定の程度に達すと,必然的に物質の身に対して反作用に働く。結果として,食べた方の物質の身は摂取したネガティブな情報エネルギーにより弱められる。その弱められた物質の身は病気にかかりやすくなる。物質の身のダメージにより行動上不注意があると、災いを引き起こしやすくなる。
広く言えば,このようなことは普段の生活の至るところに存在している。我々の思いの中に善良な部分が多ければ多いほど,善良な精神情報エネルギーを受け取るチャンスが多くなる。逆の場合も推測できる。そのため,すべての情のあるものに対して善良な心で対応することは,我々自分自身,または我々の慧命を守る最もよい方法である。
古人は「誠爲至善一生用之不盡,心作善田百世耕作有余」という偽りのない対聯を残している。
生活の中で人々はよく「酒肉穿腸過,佛祖心中留」という。しかし実際に酒肉はただ腸を通り抜けるというのがもっと難しく,最後に「断腸の思い(悲しみ苦しみの極致)」をすることが多い。
密厳院が配布した懺悔文には,「我等忏悔無始來,妄想所纏造衆罪,身口意業常顛倒,誤犯無量不善業」と書いてある。この文の意味は文字とおりで分かりやすい。「我」というのは人間の一生,すなわち生れ,老い,病,死のことを指していて,「無始来」はどういう意味だろう。ここの「無始」は無始劫であり,過去の無量な歳月のことを指している。“我”は我々の物質的な体のことだけではなく,我々の精神体,魂のことをも多く意味している。我々の魂は過去のすべての「罪」を背負っていて,言い換えれば,我々の精神体は魂が六道輪廻の中で積み重ねてきたすべての精神情報エネルギーをもっている。これらの精神情報エネルギーの中のネガティブなエネルギーは「無明」である。ネガティブなエネルギーをポジティブなエネルギーに転化しなければ,「断無明」になれない。生きている我々はネガティブな情報エネルギーを持っていることは,それらを転化しなければならないという課題は至難である。我々自身の「潜在能力」を開発するために,ネガティブな情報エネルギーを転化あるいは相殺させ,ポジティブなエネルギーを増やさなければならない。これは戒律と六度万行のホログラフィック意義である。
戒律のホログラフィック意味は不殺生の道理と同じように,戒めを守ることは修行者にとってきわめて重要である。戒律を軽視し,あるいは戒律を違反する人は,成就できるものはほとんどいないといえよう。六度万行をやり続けることで本当の心の「清浄」となる。心が完全に清浄であれば,すべてが方便法門になる。心が清らかでなければ,方便法門は白昼夢であるといえよう。
五、三密加持の仮説
密教を修行すると我々が身につけている能力をだんだんと発掘することが出来る。三密の行は我々の神通力を開発する道であろうか。密教の訓練は理屈だけでは理解出来ない。実践面の行はからなず大事にしなければならない。実践面の行は作法だけでなく生活の総てを含めて仏の知恵生活の中で実践し,成仏への道を歩まねばならない。其の訓練は、実に我々の身体の経絡の訓練である。
身体の経絡のホログラフィーの意義とは何であるか。我々は人間の身体が二部分から構成することを理解するならば,人間の身体は、物質と精神,換言すれば,肉体と魂であると仮定することが出来る。身体の経絡とは、我々の身体つまり物質と精神を結ぶ臨界状態のことである。このように理解すると,手印のホログラフィーの意義は比較的理解しやすい。観想とは、物質と精神が互いの転化しているアプローチの状態である。このように理解すれば、密教の修行をするということが、即時に成仏することを意味していると理解できる。
梵字は仏の言葉と言われている。其れを誦ずれば我々の体にどんな効き目が与えられるのか?仏陀の言語は慈悲と仁愛を満たしている。だから我々は口に唱えると必然的に体の内部の分子構造の変化を引き起こす。同様な道理で,体のすべての細胞の構造はいずれも積極的に変化するという性質をもっている。
三密加持を扱うことにおいて、次の二つの問題を提示しておく。
三密の修行は、我々の身体にどんな役割を持ち来たらすのか。細胞とか神経とか経絡にどんな結果をもたらすのか。三密を修行することにおいて、その修行が納得行かなければ、修行の説明はただ説教するだけにとどまるだろう。
密教の研究は一体どのように行うべきか?もし単純に文献学、考古学的な研究にとどまれば、知識としての研究に過ぎない。研究することにおいて智慧の部分が全く出てこない。そのような密教研究は役立たない。密教は実践の仏法で、卓上の空論の研究ではない。
三密加持というのは二つの意味を持っている。まずは“三密相應”で,その次は“三力加持”である。三密相応とは、如来側からの身口意と衆生側からの身口意が互いに相応していることである。三力は法界力,如来力と修行者の功徳力である。
修行にかかわる内容として、水の結晶の研究についての発想を紹介しておきたい。日本の江本勝⑲博士は水分子の結晶の研究に関して意義深い研究を発表した。水は各種の方式の刺激を受けて,その結晶が面白くて変わっていく。その研究はまさに神通力と肉身不壊の良い説明となろう。
江本勝氏の水の結晶に対するシリーズ研究は、仏教密教の修行にも大きな意味がある。彼の研究はおおざっぱにいうと,水にさまざまな情報刺激を与え,その結晶を観察することである。それらの刺激はポジティブとネガティブの二種類に分類される。ポジティブな刺激としては,例えば愛,世話,幸せ,感謝,賛美などであり,ネガティブな刺激は、恨み,冷淡,悲しみ,裏切り,ののしるなどがあげられている。ポジティブな刺激を与えた水の結晶の形は、非常に均整がとれて,美しい。逆に,ネガティブな刺激を与えられた水の結晶は構造的に不規則で,乱れているようにみえる(51)。
1987年にフランスの科学者であるジャック・はある実験を通して,水には「記憶」の機能があることを証明したが,業界ではなかなか認められなかった。日本の江本勝は雪の結晶は唯一であることから(歴史上世界各地で降った億兆の雪の中で,まったく同じ形をしている結晶はなかった),異なる場所の水からできた結晶は,その形と様子は違うことを思いついた。
江本氏は水を冷凍室に入れ凍結させ,それから特殊な顕微鏡でその結晶の様子の写真を撮った(江本勝著「水は語る-魂を映りだす結晶の真実」を参照)。その結果,出来上がった写真は天然水からの結晶はとても美しいが,水道水あるいは工業汚染された水の結晶は均整がとれてなく,あるいは結晶しないことを発見した。パリ,ロンドン,東京,ローマ,ベネチア,バンコク,マカオから取ってきた水道水の結晶の写真は,いずれももやもやしていて,色が暗く,均整が取れていない形で,見る人に不愉快な思いをさせる。香港の水道水の結晶も同じである。しかし,ワシントン,バンクーバー,ベルリンなどの都市の水の結晶は均整が取れていて,明るくて美しい。南極や各大陸の泉や郊外の地下水の結晶は,魅せられる宝石のような形になっている。
水に優雅な音楽を聞かせると結晶がきれいになる。また騒がしい音楽を聞かせると結晶の形も醜くくなる。牧師の祝福を受けた水,あるいは美しい風景や祝いの言葉を水の前においていくと,その結晶はきれいであるなど,更なる研究から明らかとなった。ベートーベンの交響曲「田園」を聞かせた水の結晶は爽やかな曲のように均整が取れていて美しい。韓国の民謡「アリラン」(恋人と分かれる時の悲しい気持ちを描写する曲)を聞いた水の結晶は,悲しそうな様子をしている。エルヴィス・プレスリーの歌「HeartbreakHotel」を聞いた水の結晶は割れた心の形になっている。リズム感が強いブラジル音楽を聴いた水は,その結晶が複雑で細かい星のような形になっている。オーストリアの民謡「ツィラタールは我が喜び」を聞いた水は,その結晶の中に赤ちゃんの形ができている。チベット教の経の唱えを聞いた水は,その結晶が複雑に絡み合って,力強い形となっている。最も不思議なのはアルゼンチンのタンゴ音楽を聴いた水は,その結晶はみなペアで踊っているように見える(ほかにはそのような結晶はなかった)。逆に,ロックンロールのような音楽を聞いた水は,その結晶が混雑していて,その曲が反映している怒りや低俗な歌詞と同じように見る人をいらいらさせる。
水に文字を読ませるとどうなるだろう。彼らは同じように水をいくつかの瓶にいれた後,紙に言葉を書いて,文字のある一面を瓶に貼り,水に読ませた。その結果:「ありがとう」を読んだ水の結晶はきれいな六角形になっていて,逆に「ばかやろう」と書いた紙を読んだ水の結晶はロックンロールを聴いたのと同じように混雑している。「いっしょにやりましょう」のような要請の文を読んだ水の結晶は均整がとれていて,「やりなさい」のようなきつい命令形の文を読んだ水はばらばらで,結晶ができなかった。多数の国の言葉で書いた「ありがとう」を読んだ水の結晶はみな均整がとれてとてもきれい。逆に,異なる文字で「ばか」「ちくしょう」のようなことを書いた紙を読んだ水は結晶することはできなかった。その中に,「頭にきた,殺すぞ」という文字を読んだ水の結晶は子どもがいじめられる様子が現れた。日本語,英語,ドイツ語で書いた「知恵」という文字を読んだ水の結晶は均整した形をしていて,真ん中が開いている六角形となっている。「天使」という言葉を読んだ水の結晶は美しく光る輪が見える。また「悪魔」を読んだ水の結晶の中心部は黒い突起がでていて,攻撃的にみえた。
水は賛美され,または呪われる場合はどうなるだろう。研究チームは小学生たちに瓶に入れた水に話しかける実験をした。「可愛い」といわれた水の結晶がみな可愛らしい形になっていて,「ばかやろう」と聞かされた水は色が暗く,結晶することができなかった。一回だけ「きれいだな」と聞いた水の結晶は美しく結晶している。何回も「きれいだな」と聞いた水の結晶はさらに均整がとれている形になっている。しかし,皆に無視された水の結晶は形がばらばらで,可哀想にみえた。
江本勝博士はこのように解釈している。一般的に人々は水を「死んでいるもの」(とみている。しかし,命のないものは「死んでいる」わけではない。彼らは「感受性」(見たり,聞いたり,読んだりすることができる)があり,「考える」ことができ,「記憶」ももっている。このように,万物はいつもエネルギーの交流をしていることが分かる。作曲家や演奏者は「気」を音楽の中に入れ,音楽を媒介として「気」を水に伝達し,水はそれを感じ取り,その中の情報を保存することができる。
「意念」自身はエネルギーであり,伝送することができるし,受信されることもできる。また必然的に受信したすべてのものに影響を与えるだろう。以前,このような衒学(形而上学)的理論は宗教的あるいは抽象的な概念とみなされていたが,今になって客観的で,具体的な方法により証明された。
積極的な「意念」は真,善,美の情報を発信し,物事をよりよくさせる。これらの実験から分かるように,「愛している」,「感謝している」(愛と感激)は世の中でもっとも強力で,ポジティブな力である(正のエネルギー)。
水でさえもこのような性質を示している。我々のホログラフィー概念によると,この性質を備えているものは、宇宙の万物,生命に限らない。我々人類の身体をみると,物質的な構造を除いて,魂も一部分となる。物質エネルギーの変化だけで江本勝博士の研究を説明することは難しいが,それを全面的に解釈する場合,“精神情報エネルギー”という概念を導入する必要がある。
三密修行において,真言は仏菩薩の言語で,慈悲喜舍六波羅密の精神情報エネルギーを代表している。手印は仏菩薩の動作で,如來事業を代表し,觀想本尊は意念を通して我々を仏菩薩へと導く。このように精進し続ければ,我々の体の物質構造には必ずポジティブな変化が起こる。炭素原子で例えれば,配列が雑であるのは炭素で,均整が取れている配列は石墨になり,最も完璧な結晶構造となっているのはダイヤモンドである。我々の体は修行する前はただの衆生の一人で,成就すれば仏陀になる。密教の修行のみならず,顯教の修行も同じである。密教は顕教よりも優れていることが以上の研究からも証明されている。しかし,この二者の優劣を知るだけで,戒めをせず,六度万行も修行せず,慈悲喜捨もしなければ,心が清浄になることはできない。方便法門も見つからず,日々密法を修行しても成就できるわけにはいかない。心が清らかであれば,すべての法門は方便法門になる。心が清らかで,密法を修行すれば成就しやすくなる。口先で仏法をしゃべるだけで,戒めも修行もしないものは,成就することは不可能である。
六、摩訶不思議な現象の現代哲学の仮説
仏教の修行中には、色々な摩訶不思議な現象が表われる。例えば金剛不壊,虹身,舎利とかの現象である。このような現象は不思議かどうか?
金剛不壊とは、即ち肉身不壊である。虹身とは、人間の身体は揮発して光明と薫りと放つことが可能なことである。これも不可思議なことである。舎利とは、人間の身の物質と精神臨界の状態の可能な表現を理解すると,問題は単純化したことになる。
筆者は長年このような問題を真剣に考えてきた。修士論文は筆者のこのような疑問を研究し、その回答を発表した。
摩訶不思議現象とはなにか。
摩訶不思議現象は,種々な哲学観によって理解が可能である。摩訶不思議現象を現代科学の理論から見れば、不思議かどうか?もし現代科学から解釈できないなら、現代科学のほうに問題があるのではなかろうか、とも考えてきた。確かに多くの場合は、現代の科学で解決するが、現代科学のみでは解決できないことが多くある。仏教の哲学観は、ホログラフィー哲学観である。この仏教の哲学観は、現代の科学哲学を完全に呑み込み、収容可能である。
精神と物質の研究はどのようにすべきか。区別して研究できるのか。物質を研究して,さらに現代科学の手段と方法で精神を研究すれば,現代科学の方法では、精神と物質の研究には、手薄であったことにきづく。
摩訶不思議現象はまた超自然現象と呼ばれている。人類の既知の知識を超え,あるいは現代科学哲学理論のより解釈不能なことや現象を指している。例えば,肉身不滅,舎利,神通,火光三昧,人体自然発火などがある。
ここでは超自然現象に対して深く追究するつもりはないが,前述した分析と仮説および例を合わせれば,現代科学哲学の観点の有限性,また精神概念を導入することの重要性に対して十分に説明したと考える。
これらの現象は超自然現象というよりは,むしろ現代の科学哲学の研究方法をもっては、それを解明するだけの方法はまだ備えていないと言ったほうがいいだろう。現代の科学哲学は不完全である理由は,物質のことしか考えず,精神のことを見落としているところにある。物質と精神は両者の間は矛盾しながら統一している対であり,互いに依存しあい,影響し合って,また相互転化している。現代科学哲学は明らかに物質実証のみを重視するが,精神要素の影響と働きを見落としている。
まとめ
空海、弘法大師は生涯に渡って密教の教法を積極的に研鑽し,慈悲喜舍、六度萬行し,最終的に不滅の肉身まで達した。不滅な肉身を成就している空海を研究するには、教法からの空論を研究することが、研究といえるのか。
現代の人々は西洋科学を受け入れ,だんだん物質実証主義の道に入り,完全に精神の働きを見落としてしまった。そのため,仏教,密教の研究はよるところがなくなっている。しかし,仏教の修行において,精神はきわめて重要である。精神に対する研究の方法はほとんど携わる人がない。多くの学者は、文字の分析や空論に留まっているだけである。西洋科学は完全な哲学科学ではなく,仏法こそ完全な哲学科学である。仏法は唯物と唯識を完璧に合成させ,修行実践の中でそのホログラフィック哲学科学の真理性を示されている。
宇宙は実の宇宙と虚の宇宙とに分けられている。すなわち物質宇宙と精神宇宙のことである。二者は分離してはいけない。実の宇宙はいわゆる仏家がいう「色」で,虚の宇宙は仏菩薩の精神体である。あらゆる超自然現象,摩訶不可思議現象は虚の宇宙と実の宇宙の間の臨界状態において発生している。神通はすべての生命体の本能あるいは「潜在能力」である。三密相応の修行は、炭素原子を無秩序状態から整列に並べ替えるエネルギーの吸収過程である。仏教のあらゆる修行は、外部の環境と絶えず精神エネルギーの交流をしている。戒律のホログラフィック意義は修行者がポジティブな精神情報エネルギーを吸収し続けることの保証にある。
參考文獻:
1.『金剛峯寺建立修行縁起』,『弘伝全』vol.1,p.54a.
2.『空海僧都伝』,『弘伝全』vol.1,p.32b.なお、この空海の言葉は『御遺告』(『定弘全』vol.7,p.356)にもうかがえる。聖賢(1083-1147)の『高野大師御広伝』下では、この言葉が五月二十八日付の『遺誡』(『定弘全』vol.7,pp.391-392)と結び付けられている(『弘伝全』vol.1,pp.262b-263b)。
3.『太政官符并遺告』,『定弘全』vol.7,p.346.
4.『御遺告』,『定弘全』vol.7,356.
5.同上,p.365.
6.『金剛峯寺建立修行縁起』,『弘伝全』vol.1,p.55a.
7.今日では、遺告類を空海真撰とする説は採られない。なお、各遺告の成立過程については、武内孝善「御遺告の成立過程について」,『印度学仏教学研究』vol.43,no.2(vol.86),pp.607-611,1995.および同「御遺告の成立過程-附・御遺告項目対照表1・2-」,『密教学会報』vol.35,1996.などを参照。
8.兼意『弘法大師御伝』,『弘伝全』vol.1,218a-b.
賢宝『弘法大師行状要集』vol.6,『弘伝全』vol.3,pp.193a-194a.
9.『大般若波羅蜜多経』vol.53,T.5,p.298c.
10.いわゆる「遺告類」の内、『御遺告』と『太政官符案并遺告』の中に、都率往生に関する記事が載せられている。ただし、「遺告類」は空海真撰とは見なし難いため、松本昭先生はこの点について、「空海の遺告を編集する時、都率信仰を持つものがいて混入したと思える」(『弘法大師入定説話の研究』,p.190,六興出版,1982)と述べられている。
11.『成唯識論』vol.3,T31,p.12c.なお、基の『成唯識論述記』vol.3末では、道理三世・神通三世・唯識三世の3種類を論じているが、その内の唯識三世では「多分分別妄心所変。似去来相。実唯現在。此中論文。法体離言但唯有識」(T43,p.339c)とある。
12.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第三』pp.69-70,國書刊行會。
13.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.31-31,國書刊行會。
14.九華山官僚機関HP(http://www.fo365.cn/gsgl_list.asp?action=more&c_id=43)を参照。
15.JoanCarrollCrutz『TheIncorruptibles』,TheUnitedStates,1977.
16.『大智度論』vol.28には、「五通是菩薩所得。今欲住六通是仏所得。若菩薩得六神通可如来」(T.25,p.264a)とある。
17.『宋高僧伝』などにその例は数多く紹介されている。例えばVol.7の希圓伝や玄約伝などを参照(T.50,p.746a-b)。
18.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.28-31,國書刊行會。
19.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.31-32,國書刊行會。
20.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.32-32,國書刊行會。
21.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.33-33,國書刊行會。
22.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.33-33,國書刊行會。
23.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.34-34,國書刊行會。
24.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.35-35,國書刊行會。
25.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.35-35,國書刊行會。
26.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.36-37,國書刊行會。
27.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.37-37,國書刊行會。
28.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.39-39,國書刊行會。
29.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.39-40,國書刊行會。
30.『新纂大日本続蔵経_第八十巻_五燈會元巻第一』pp.40-40,國書刊行會。
31.陳慰峰『医学免疫学』,人民〓生出版社,2005.
32.呂志平・趙春妮『基礎中国医学』,科学出版社,2006.
33.『黄帝内経』出版社:人民卫生出版社2005-01.
34.〓哈嘉瑜伽(http://www.sahajayoga.org.hk/index.html)より転載。
35.『大般若波羅蜜多経』vol.9,T.5,p.45a.
36.『周易系辞上傳』上海古籍出版社,1989.
37.『道徳経』,陜西旅游出版社,2004.
38.鳩摩羅什訳『金剛般若波羅蜜経』,T8,p.756c.
39.skt.”eka-pinda”(Conze,VajracchedikaPrajnaparamita,p.60.SOR.Vol.13,Is.M.E.O.,1957)なお、吉蔵『金剛般若疏』vol.4には、「世界一合相者。若微塵世界相対。微塵喩十方法身不一。世界喩十方法身不異。但論意用微塵通喩不一異」(T33.p.123a)とあり、「一合相」を、世界を不一不異の関係で説明した語句として解釈している。
40.『妙法蓮華経』vol.7,T.9,p.57a.
41.『神僧伝』vol.3,T.50,pp.961c-963a.
42.張穎清『全息生物学』,pp.??-??,高等教育出版社,1989.
43.『一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経』,T19,p.713a-b.
44.『般若心経秘鍵』,『定弘全』vol.3,p.3.
45.『大正新修大蔵經第五十卷史傳部二-神僧传卷第二』pp.957-958
46.『大正新修大蔵經第五十卷史傳部二-神僧传卷第七』pp.996-997
47.『大正新修大蔵經第五十卷史傳部二-神僧传卷第七』pp.996-996
48.『大正新修大蔵經第五十卷史傳部二-神僧传卷第八』pp.995-996
49.『大正新修大蔵經第五十卷史傳部二-神僧传卷第八』pp.1001-1002
50.『大正藏——大般若波羅蜜多經卷第三初分學觀品第二之一』
51.『大正藏——大般若波羅蜜多經卷第三百四十六』
52.『水からの伝言』http://www.thank-water.net/picture-book/Picture%20Book.pdf



